身近なカウンセリング

無限の樹形図

cocorotkn 2011年3月22日 by cocorotkn

「無限の樹形図」これは、

テレビ大阪で放送されていた、

「最上の名医」の中で、出てくる言葉です。
 

 

私も途中から見出して、ハマってしまったのですが、

どうも人の命、

特に子供の命に関わるテーマの番組には、

興味を持ってしまいます。

 

放送された最終回は、

医学の世界では、

「大人の命も子供の命も同じ」

しかし、治療費が全く違う。

そして幼い故に「リスク」が大きい。

救えて当たり前。

失敗すれば訴えられる。

ならば、

同じ命ならば「リスクの低い、高い治療費」である、

成人の命を救うほうがよい。

リスクが大きく、医者の負担が大きい「小児外科」は採算に合わない。

だから切り捨ていくのが経営上ベスト!と、

重い課題もあり考えさせられました。
 

 

このドラマの中で「無限の樹形図」という言葉が出てきます。

 

ひとり幼い命を助けることにより、

その子供が大人になり、

結婚し子供を産み育てる事により、

無限の広がりが産まれる。

 

もしその命を無くす事で、

これから広がる「命の樹形図」が途切れる。

 

幼い小さな命が「無限の樹形図」を作り上げていく。

と言う主旨でした。
 

 

カウンセリングの世界にも当てはまると思います。

悩みを抱えて、カウンセリングに来られます。

その時に「悩みの軽い重い」は関係ありません。

その人自身が今苦しんでいる事には、変わりは無いからです。

 

どんな悩みでも、その人を苦しめています。

その悩みを「クリア」する事により、

その人の人生が大きく変化します。

人への関わり方が変わります。

関わり方が変われば、

相手の人の反応も変わります。

またその相手の人も、

次の人への反応が変わり、

「良い循環」が産まれてくるのです。

 

自分の関わる人、

そして、自分の家族に、

一番大事な子供に、

変化を受け継がれていきます。
 

 

これも「無限の樹形図」です。
 

 

カウンセリングでその人が「自分らしく人生を送る」様になるには、

膨大なエネルギーが要ります。

すぐに気付きが促され、

変わっていけば良いのですが、

逆にいくらエネルギーを注いでも、

変化が思うように出ない時もあります。

でも、クライアントが頑張り、

「自分らしく人生を送る」様になれば、

その力を次の人に受け継がられていきます。

 

今は、「一つの悩みの解決」にしか成らないかも知れません。

 

でもこの「自律」が

次の「自律」を産んで行きます。
 

 

カウンセリングに於ける

「無限の樹形図」を信じて、

関わっていきたいです。
 
 
 
 

春の訪れ:菫

cocorotkn 2011年3月15日 by cocorotkn

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東日本大震災は、他人ごとではありません。

16年前に阪神大震災の惨情を知って居る者からすれば、身に詰まる思いがあります。
 

 

ひとりでも多くの方々が助かり、

家族と再会できる事を祈っています。
 

 

私共の講座で「専科:ボランティアとカウンセリング」があります。

受講された生徒さんは、思い出してください。

地震・津波により、

自らも傷つき、家、家族を失った方々に私たちは何が出来るでしょうか?
 

 

私たちは少しでも、

頑張って欲しい、

勇気付けたい思いから「励まし」をしてしまいます。

「頑張って」この最悪の状況に耐え、

乗り越えようとしている方々に「頑張れ」の励ましは

かえって苦しめることになる事があります。

 

「頑張っているのに、まだ頑張れと言うのか!」と言う思いです。
 
 

 

如何に「共感」が出来るか!

そばに居て、

その苦しい思いをを聴き、

一緒になって「泣ける」か!

 

テレビを観ていて、報道の人たちが被災者の方々に「インタビュー」をされています。

 

その中に、親身になって被災者の立場になり話しを聴き、

涙している報道の方が居られました。

とても大事な事をされたと思います。

 

少しでも「気持ちを汲む」で貰えた思いで、

少しでもこころが安らぎます。
 

 

心の中では「自分だけが助かった」と言う

罪悪感を持ってしまっている方々も居られます。

そんな時にその思いを聴いて貰えたと言うだけで、

救われる思いが湧いてきます。
 

 

ボランティアをしたい方も一杯居られると思います。

でも今は、「プロ」専門家でないと対応できない時期です。

必ず、ボランティアの力が必要となる時が、そこまで来ています。

 

今、私たちが出来る事は何かを、

見つける時だと思います。
 

 

 

アスファルトの隙間から咲く「菫」を見つけました。

どんな、逆境の中でも春になると、

必ず花を咲かせます。
 

被災された方々も、

必ず立ち上がる時が来ます。

その時に力添えが出来るように、

今、自分が出来ることに力を注ぎましょ!
 

 

本当は、「春の訪れ」として、

楽しく明るい話題で書き込みをしたかったのですが!

Yahooの知恵袋

cocorotkn 2011年3月8日 by cocorotkn

「Yahoo!の知恵袋」が、話題になっています。

 

私も時々、覗いています。

いろいろな質問があり、それに対しいろいろな解答が掲載されています。

真剣に答えている返事が多いのですが、

時には「?」と言うのもあります。

でも、いろいろためになる事は多いようですね!
 

 

以前の質問に

「昔、携帯が無い時代、待ち合わせとか、約束はどうしていたのですか?」という趣旨の質問がありました。

 

思わず「えっ!」と思いましたが、

今の世代は人たちにすれば、素朴な質問なんですよね!

 

携帯電話が当たり前の如く、

日常性生活の中に入り込んでいる世代にとっては!

 

携帯さえあれば、

待ち合わせも、

時間変更も、

キャンセルも、

リアルタイムに連絡を取り合う事が出来て、

とても便利になりました。

 

相手の人に迷惑を掛けないように、

対応が素早くできるようになりました。

 

その反面、いとも簡単に約束の変更が出来るようになりました。

自分の都合で!
 

 

携帯の無い時代は、

「黒電話=固定電話=家の電話」でした。

「個人から個人へ」の電話ではなく

「家への電話」でした。

 

友達に伝えたい事があれば、

先ず「友達の家=友達の家族(親)」に電話をして、

友達に繋いで貰わなければなりません。

 

これが、彼女への電話ならば、そら大変でした!

父親などが出てくると、とても緊張します。

「○○さんのお宅でしょうか?

わたくし△△さんとお付き合いをさせて貰っています、

○○と言うものですが、

△△さんは居られるでしょうか?」と言って繋いで貰います。

 

時には、父親によって「ガチャ」を電話を切られてしまい、

取り次いで貰えない事がありました。

本当に大変でした。

電話をする時間まで気を遣って!

遅い時間等もっての外でした!

 

でも、このような経験が社会に出てから、

仕事での電話の対応の仕方が、自然と身に付いていました。
 

 

携帯は「個人=個人」ですから、

必ず本人が出ます。

敬語も要らないし、

初めの挨拶も要りません。

要件をダイレクトに話していけば良いのですから。
 

 

待ち合わせにの時も、

必ず相手が出ますからすぐに変更の連絡も伝えられます。

リアルタイムに!

いとも簡単に!

 

しかしながら、

「黒電話=固定電話=家の電話」ならば、そうはいきません。

直接、本人に繋がらないのですから!

 

昔は駅での待ち合わせの時は、

駅には「伝言板」がありました。

そこに伝えたい事を書き込み、連絡を取り合ったものです。

これしか方法がありませんでした。
 

 

相手が待ち合わせ時間に来ない時は、

連絡の取り様がありません。

ひたすら待つか、

相手の家に電話をして

「連絡が入って居ないか?連絡が入ったら伝言をして伝えて欲しい。」等をして、

コンタクトを取るしかありませんでした。

 

ですので、変更が生じた時は相手に連絡が付く時間までしか、

変更はできません。

相手を待たすだけです。

 

ですので、出来るだけ「約束」を守ろうとして動きます。

相手に迷惑を掛ける事になりますから。

スケジュールの調整もしっかりします。

約束した事を変更する事が難しいので!

 

自然と相手への「思いやり」が生まれます。

そして約束を守ると言う事も!
 

 

今は携帯のお陰で、

いつでも連絡を取る事が出来るので、

いとも簡単に変更、キャンセルをするようになりました。

「ドタキャン」もありです。
 

 

便利になった分だけ、

何かを「失った」様な気がします。
 

 

相手を「思いやる」

こころを!
 

マラソン~歩いて行こう~

cocorotkn 2011年3月3日 by cocorotkn

先日「東京マラソン」が開催されました。

 

 

当日の読売新聞「編集手帳」にコーナーに

「東京マラソンを2時間半で走ったと自慢する人が居ますけれど、

もったいないでしょ。

沿道に用意された、あんパンやバナナもろくに食べれない。

私の場合は5時間近くも掛けて走りながら、

飲み放題、食べ放題・・・」

市民ランナーで「ゑりの未楽」の落語家名も持つ作家、衿野未矢さんの話が載っていました。
 

思わず「プッ」と吹き出しました。

 

マラソンと言えば人間の限界に挑戦して、

42.195キロを、如何に速く走る競技と思いこんでいました。

そんな事は、

一部のトップクラスの選手に任して、

楽しむマラソンもOKなんですよね。

 

確かに、記録に挑戦も大切な事です。

自分の頑張った証にもなります。

自信にもなります。

やればできるんだと!
 
 

 

楽しむマラソンも素敵だと思いました。

沿道の応援してくれる人たちに触れ合いながら、

走るのも良いんじゃないですか!

ボランティアで「エイドステーション」を準備して、

ランナーたちに提供してくれる人たちに、

笑顔を讃えながら

「飲み放題、食べ放題」も素敵ですね!
 

 

私設ステーションの心が籠っていると思います。

「今年もここを楽しみにしていました。」と言って、触れ合っていく。
 

 

時には、完走して「プロポーズ」!

 

交通事故で亡くした子供に背中を押されてゴールした!

 

目的を持って、自分の自信にする為に等、いろいろ!

 

いろんな「ゴール」があっていいじゃんないですか!

 

「ゴール」は一つでも、

ゴールするまでの方法は、

人それぞれ一杯あっていいじゃないですか!

その人なりに満足できれば!

残念ながら、途中リタイヤしても、

「チャレンジ」して頑張った自分が居てるじゃないですか!
 

 

みんな素敵です! 

頑張ったんだもの!

 

なんか「人生」と似ていませんか!
 

人それぞれの「ゴール」があります。

そして、それぞれの「ルート」があります。

これ以外の「方法」「道」は無い事は無いのです。

決して「決められたゴール」「決められたルート」だけではありません。
 

 

自分が歩いた道が

「あなたのルート」です。
 

自分がたどり着いたところが

「あなたのゴール」です。
 

誰の「ゴール・ルート」でもありません。
 

「私自身の、、ゴール・ルート」です。
 

人間、歩いて「時速5キロ」そんなに急いでも、変わりません。
 

ゆっくり、人生を楽しんで進みましょ!

 

時には寄り道、脱線もいいじゃないですか!
 

急ぎたい人には、急いで貰って!
 

「人生、ゆるりと参りましょ!」 

 

なんか、10月の「大阪マラソン」を走りたくなって来ましたよ!

楽しみながら!

伝承②

cocorotkn 2011年2月22日 by cocorotkn

二週間ほど前に「党首討論会」がありました。

「菅内閣」になっての初めての「党首討論会」のようでした。
 

 

当日は講座がありましたから、

リアルタイムに見れませんでした。

初めはNetニュースで読んでいました。

そして帰宅後ニュース番組で見ました。

 

その時に少し違和感を感じました。

 

討論中の「公称」です。

菅首相(総理大臣と呼べばいいのでしょうか?)と

谷垣自民党総裁の名前の呼び合いでした。

 

討論中、菅首相は

「谷垣自民党総裁」と名前を呼んでいました。

 

しかし谷垣自民党総裁は

「菅さん」と名前を呼んでいました。

なんか変ですよね!
 

 

今は、いろいろ問題がありますが

菅首相は、我が国の総理大臣です。

イコールこの国の代表者です。

そのトップの人を「さん」付けで呼んでよいのでしょうか?

 

会社で言えば「代表取締役社長」に対し

「○○さん」と」呼べるでしょうか?

 

例え年下、経験不足な上司でも「さん」付けで呼べるものではありません。

まして、相手の会社の「社長」に対し

「さん」付けでは絶対に言えません。

 

会社の規模に大きな差があっても同じです。

相手を立てて「役付け」の名前で呼ぶのが礼儀です。

 

特に「公」の場では!
 

私はそのように習ってきました。
 

 

今、見ていると同じ民主党の中でも「さん」付けで呼ぶい人がいます。

同じ閣僚の中でも。
 

昔は、大臣といえども

「○○総理大臣」「○○首相」と呼んでインタビューにも応えていました。
 

 

何時から、「目上の人を敬う」心を忘れてしまったのでしょうか?

私たち大人が、

このような表現を繰り返していたら、

子供たちは当たり前と思い、

ごく自然に使わなくなって来ます。

 

現に、学校の先生を敬う事が子供たちにどれだけ居るでしょうか?

「タメ語」を使う子供がとても多くいます。
 

私たちがしっかりと「言葉使い」を正さないと

「日本語」の良さが崩れていきます。
 

 

また、こんな言葉使いをしていると、

相手から「見下され」、「信用されない」人間になってしまいます。

自民党の支持も上がるのでしょうか?    

 

例え「戦略」として表現しているとしても、問題があります。
 

 

私も、言葉を伝える立場に居ますので、

「心して」話さなければなりません。

 

伝えなければならない事が一杯ありますね!
 

伝承

cocorotkn 2011年2月16日 by cocorotkn

講座の中で、生徒さんに分かりやすく伝える為に

「ことわざ」や「言い回し」や時には

「昔あったこと」や「作法」等を交えて、

伝えることがあります。
 

ところが、「ことわざ」等、

私たちが昔から使っていた

「言い回し」が伝わらない事が多々あります。

 

以前は「ジェネレーション・ギャップ」だなと思い、

伝わらなくても仕方が無い事かなと、

軽い気持ちで流していました。
 

 

しかしながら、それで良いものかと思うようになりました。
 

 

私たちは「ことわざ」「言い回し」「礼儀」「敬語」等、

誰に教えて貰う訳でもなく、

何時の間にやら自然と身に付いている事でした。(勘違いの時もありますが!)

 

職員室に入る時の作法、

先生、上司、先輩、に対する敬語、

接し方等は誰に教わることなく、

先輩たちの姿や、話から、

何時の間にやら覚えてきました。

 

ごく自然と、「当たり前」として、身に付いています。
 

自然と伝わっていた事柄が、今途切れ始めているようです。
 

 

今、私たちが「ジェネレーション・ギャップ」として仕方が無いとして、

伝えなければ、

その「言葉」「作法」「行事」「礼儀」等が、

途切れてしまうのです。

 

途切れれば、

その「言葉」「作法」「行事」「礼儀」等事態が

「存在せず」になってしまい、

此の世から消えてしまいます。
 

 

一度途切れれば、

ふたたび「繋ぐ」事は困難になります。

 

何気ない、日常生活から消えてしまうと、

それが当たり前になります。
 

 

とても怖い事です。

こんな事が進んで行くと「日本の文化」までが

消えていくことになります。
 

 

私たちが知っている事は、

「先人たちの智慧」からの伝承です。

私たちが伝えなければ、途切れてしまいます。

何を伝えれば良いのかはピンときません。

私にとっては当たり前の事でしたので。

でも、何でも良いから伝えれることから、

伝えていくつもりです。

 

例え「年寄りくさい」「死語」と言われようが、

折に触れて意味を説明しながら、伝えていくつもりです。
 

 

「伝承」≒「後継者づくり」に成ります。
 

 

「エリクソンの発達心理学」の

「第7段階:生殖性」のテーマ

「後継者づくり」今その真っ最中です。

怒り④

cocorotkn 2011年2月9日 by cocorotkn

怒りシリーズです。
 

毎日毎日、「怒る」自分に気をつけています。

 

しかしながら「怒る」気持ちは、

毎日毎日、生産されるようです。

ほんのチョットした事にでも

「怒る」が湧いてきたりします。

道を歩いていても、

電車に乗っていても、

物思いにふけって居ても!

でも、この頃「怒っている自分」に注意を向けるようにしているので、

囚われる時間は短くなってきています。
 

 

「怒る」に新しい発見です。

それは「保身≒守りたい自分」です。

以前にも書き込みましたが

「良い人」で居たい私が居ます。

幼い時から、

常に「良い人」を求められ、

「良い人」出ないと

「横井家の一員」で居られない、雰囲気の中で育ちました。

 

基準は、「他の人より偉くあれ!

      相手から見下されるな!

       相手より上の立場であれ! 良い人で在る為に!」と言う事を

 

暗黙の了解のもとで育ちました。

 

 

子供の頃は友達(数少ない友達です)と一緒にイタズラもしました。

しかし、学校の先生や、

大人に見つかり怒られると、

とても危険な状況に追い込まれます。

 

「悪い人」に成ってはいけないからです!

常に「良い人」でなければなりません。

 

その結果「嘘」を付かなければなりません。

でも、すぐにばれますけれどね!
 

 

何時の間にやら、

自分の気持ちにも「嘘」を付かなければ成らなくなって来ます。

自然に振り舞いたいのに、

家族の眼があるので「良い人」で在らなければなりません。

 

こんな気持ちが、積み重なり

「怒る」をと言う事に変化していきました。

 

前回も書きましたが「自分の思い通りにならない≒怒る」に繋がります。
 

 

もっと自分の気持ちに「素直」に生きればよいものをね!
 

 

読んだ本の中に

「武士は鎧を着けて、戦争をする。

それは身を守るために。

死ぬのが怖い。

重いのに身を守るために鎧を着けて戦い、

怖いから、

身を守るために相手を殺す!」

 

どれだけ「死にたくない」と思っているのか?

ならば、戦争なんかしなければ良いのです。

思いませんか?
 

 

もっと、自分の気持ちに素直になれば、

もっと「楽」に生きていけるのに!
 

怒り③

cocorotkn 2011年2月2日 by cocorotkn

怒りのpart3です。
 

 

私たちは、コミュニケーションに於いて、

「私の話す事を理解して、私の思った通りに動け。」という

思いで話している事が多いようです。
 

そして、

私の思い通りに動かない人は悪い人≒怒るに繋がります。

 

道を歩いていたら、

目の前の人がゆっくり歩いているだけで、

自分のペースが狂って「怒る」ます。

そして「前を空けろ」と思ってまた怒ります。

 

私も同じです。

混雑している電車の中で、

目の前の乗客がリュックを背中に背負っています。

そのお陰で、真後ろに居ている私に当たります。

揺れる度に当たって痛い思いをします。

そこで腹が立ち「怒る」が生まれます。

リュックを背負った乗客は何もしていないのですが、

他の乗客に迷惑がかかっている事に

気がつかない事にも「怒る」です。

 

この乗客は、気付いていないのです。

リュックが他の乗客に迷惑を掛けているとは、

これっぽちも思っていないのです。

それに対して、私は「怒る」っているのです。

「リュックをどけろ」と!

 

身勝手ですよね!

自分の思い通りにならないと「怒る」のですから!

 

これは「欲」が成せる技だと言われています。

自分の思い通りにしたいと言う

「欲」に捉われているのです。
 

 

「欲」≒「怒る」ともいわれます。

「欲」が叶わないと、

「怒る」が生まれます。

逆に「欲」を捨てると

「怒る」が消える!

確かにそうですが、

そう上手くいきません。

人間は「欲」をいっぱい持っているのですから!

それを、いかにコントロールするか!
 

 

先ほどの電車の中の件の時に私は、

出来るだけ自分言い効かせるようにしています。

「相手が思い通りにならないのは、当たり前。

私では無いのだから、

私の気持ちが分かる筈かない。

分からない人に怒ってみても、仕方ない事。

怒る事を辞めよう。

自分が少し位置をずらせば、

当たらなく済んで怒らなくて済むじゃないか。

怒っているだけ損だよ!」と

出来るだけ思うようにいます。

 

でも、なかなか思うように行きません。

すぐに「怒る」が顔を出します。

そんな時は

「もう怒ってしまったので仕方ない。

早くそのこだわりから脱却しよう。」と

思うように日々努力しています。

 

少しでも、「怒り」から解放されたいので!

怒り②

cocorotkn 2011年1月25日 by cocorotkn

前回の続きです。
 

私の中には「怒り」が有るというのは前回もお伝えしました。

私は幼い頃から「いい子ちゃん」を演じていました。

「怒り」と言うものを持つこと自体が、

「悪いこと」と思い込んでいました。

「怒り」の感情を呑み込んでいました。

無意識の中で!

 

「怒る」事は、良くない、

悪い事だと、

幼い時から刷り込まれていました。

何の疑いもなく!
 

 

人からは「良い人」と言われる事が当たり前で、

何の疑いもなく演じ続けました。

大声も出す事も「悪」でした。

その影響かもしれませんが、

私がチョット大きな声で呼ぶだけで、

女房はビックリして飛んできます。

時には顔色を変えて!

 

ただ、

二階に居て女房を呼んでも

一階のリビングに居る女房に聴こえなかったので、

大きな声を出しただけなのですがネ。

 

ごく普通の事ですが、

普段大きな声を出して呼ばない私が、

急に(?)大きな声で呼ぶので、ビックリするようです。

何でも私の事を分かっている女房でさえも、この状況です。
 

 

幼い頃から、

おとなしく、

何でも親や周りの大人たちの言う事を聞いて、

その通りに行動していると

「いい子」として認めて貰えます。

例えその事が、

自分にとって嫌な事でも、

自分の気持ちを殺し、

呑み込み従います。

 

時には、

「我」を出し自分の好きな事をすると、

親が「嫌な顔」「哀しい顔」「怒る」

特に私の母親は、ヒスティリックになり周りに当たり散らします。

その姿を観ると、

「自分を殺します」

 

常に「いい子」をしなければなりません。

「悪い子」は「罪」なのです。
 

 

「怒る」事は一切「タブー」です。

 

怒ろうものならば、

親の「拒絶の態度」と

「あなたらしくない」との言葉で封じ込められます。

親たちの期待(親戚も同じ対応をしていました。)に応えるように、

自分の気持ちを殺し、

「怒り」を呑み込んでいました。

 

それが、「良い事」と思い込んで!

ごく自然の形で!
 

 

私の中にこの「怒り」を呑み込んでいる事に、

しっかり実感したのは11年前の「エサレン研修」です。

この時に受けた

ザベッティーによる「ライフエナジー」ワークにより、気づきました。

 

その以降、如何にこの

「怒り」と向き合うかが課題になっています。
 

「怒り」の爆発を起こさないためにも!
 

 

何もせずに放っておくと、

いつか爆発します。

それが肝心の対象ならばまだましですが、

たまたま、「怒り」を感じた相手に爆破しては意味がありませんしね。

またその人にも大きな迷惑になりますからね!
 

 

「怒り」について、色々な書き込みをしていきますね!

悩み≒考える :怒り

cocorotkn 2011年1月20日 by cocorotkn

昨年から今年にかけて、

ひとつのテーマに取り組んでいます。
 

 

それは、私の中にある「怒り」です。
 

 

以前からこの「怒り」に関しては

自分の中のテーマとして捉えてはいましたが、

現実、如何に対応するかは問題でした。
 

 

怒りに関する本などを読んでいますと、

面白い事に直面しました。

 「悩みは、考えるから産まれる。

     考え出して創り出している。

      ならば、考えなければ悩みは産まれない。」

 

その通りです。

「ゲシュタルト」の捉え方と同じです。

 「悩みは五感で感じているのではない。

           考えて創り出している。

   ならば、感じれば考える事が出来にくくなるので、

           悩まない。」
 

 

私たちは、考えて悩みを創り出しています。

     それも、過去に起きた事を思い出して。

過去の事を思い出して、悩みます。

考えても変わらない、

どうしょうもない事を思い出し、悩み苦しみます。
 

思い出さなければ、

悩まなくて済む事を、

何かの拍子に思いだし、

悩んでいます。

 
 「ならば、考える事をやめる!」

   仏教の世界では「無」の境地です。

 

でも、そんな事は出来ません。
  

人間である限り、

考えないという事はできません。

また、判断を下す事も考えていますから!
 

 

只、過去に捉われて、

考えて悩んでいる事は意味がありません。
 

考えて、悩みに捉われた時に、

「捉われている自分」に気づきてください。
 

そして、「首を横に振る」だけでも考えている状況から、

脱却できますので。
 

 

これも「ゲシュタルト」です。
 

 

「今、ここに。私は何をすべきか!」です。