あたりまえ
私たちは「あたりまえ」に慣れてしまい、
「ありがたさ」に対し、無関心になった気がします。
毎日、「生きていてあたりまえ」
「御飯がだべれて、あたりまえ」
「電車に、車に乗れてあたりまえ」
「好きな物が買えて、あたりまえ」
「好きな事をしてて当たり前」
「毎日、学校、会社に行けてあたりまえ」
「毎日、テレビが観れてあたりまえ」
「誰かが、私の為にしてくれてあたりまえ」
「私の犠牲になって、私が楽しくあればあたりまえ」いっぱいあります。
確かに、
日本は「平和」で貧富の差があれ多かれ少なかれ「幸せ」に生活が送れます。
でも、それは色々な人たち、
いろいろなものたちの努力、
犠牲の上に成り立って居るものが多くあります。
御飯がいつでもお腹一杯食べれる!
これも当たり前のことです。
好き嫌いをいくら言っても、
空腹にならずご飯が食べれます。
しかし、
その「あたりまえ」が何の問題なく手に入るのは、
いろんな人たち、ものたちの力添えがあればこそ、
成り立っている事です。
今、娘達もこの「あたりまえ」の中で育っています。
何にも、娘たちに「苦労」を味わせたくないので、
出来るだけ「望み、夢」を叶えられる様に、環境作りをしてきました。
時には、その事が娘たちを
「あたりまえ」の世界に浸らす事に成るのかと、思い悩む時があります。
何も「苦労を買って出ろ」と言いませんが、
「あたりまえ」では無い事に、もっと気づいて貰わなければならない気もします。
「世の中」も「あたりまえ」で通っているから、
余計に無頓着になるのでしょうか?
「平和ボケ」の一言で片づけれることではないと思います。
「あすかへ、そしてまだ見ぬ我が子へ」の一節を書き込みます
「あたりまえ」
あたりまえ。
こんなすばらしいことを、
みんなはなぜよろこばないのでしょう。
あたりまえであることを。
お父さんがいる。お母さんがいる。
手が二本あって、足が二本ある。
行きたいところへ、自分で歩いて行ける。
手をのばせばなんでもとれる。
音がきこえてこえがでる。
こんなしあわせはあるでしょうか。
しかし、だれもそれをよろこばない。
あたりまえだと 笑ってすます。
食事がたべられる。
夜になったらちゃんと眠れ
そしてまた朝がくる。
空気をむねいっぱいにすえる。
笑える 泣ける
叫ぶこともできる。走りまわれる。
みんなあたりまえのこと。
こんな素晴らしいことをみんな決して喜ばない。
そのありがたさを知っているのは
「それを失くしたひとたちだけ」
「あたりまえ」に麻痺しないように、心に感じていきましょう!