自由への責任
「自由への責任」
自由とは何でしょう?
V・Eフランクルの著書「意味への意志」の中に表現されていました。
彼は第2次世界大戦下、
ナチスによって強制収容所に収容され、
妻をはじめ、多くの家族を失いながらも、
「態度価値」を見出して生還し、
後に「ロゴセラピー」を展開した人です。
あの悲惨な収容所の中で、
想像を超える体験の中で「生きる」事の意味を見出せたか?
「意味への意志」の中で「自由の責任」が問い掛けられていました。
私たちは「○○からの自由」を意識しすぎる為に、
「求める」事を望みます。
結果、「与えられる自由」を要求します。
しかし、真なる自由は「○○への自由」です。
これには、責任が求められます。
私たちは今、「自由」は有って当たり前と思っています。
求めて当たり前と思っています。
何をするにも自由、
先ず「自由」ありきで捉えています。
何をやっても自由、
何を言っても自由、
好きにやって自由、等。
これは本当の自由でしょうか?
本当の自由は常に「責任ありき」です。
自由には必ず、責任が付いてきます。
責任を果たすから「自由」が手に入ります。
例えば「校則」です。
みんなが一般的な常識の約束事を、自主的を守って行けば、
「校則」は必要ありません。
そのルールを破るから「校則」が生まれます。
結果縛られることになります。
面白くありません。
「自由」を手に入れたければ、
一般的な常識の約束事を守るという、
責任が常に付いてきます。
行動、言動、等に
責任を持つからこそ自由が守れます。
言論の自由、
表現の自由、
宗教・政治の自由等、
今は当たり前に有るように思っています。
それは、
先人達が戦い、
勝ちとり、
責任ある行動をとり、
守って来たからこそある自由です。
一度、「自由」と「責任」について、考えてみませんか?
今日の書き込みは、ちょっと堅くなりすぎましたね!
先日、娘と受験、成績について話し合いました。
昨年の今頃このブログにも書き込みました、「自主勉強」の問題です。
塾をやめて、
通信講座で自分で勉強し成績を上げる。
そして「嵐のコンサートに行く」事を約束して、チャレンジを始めました。
娘なりに努力して頑張りましたが、
思うような結果が出ません。
この時までに結果を出す、
約束も果たせないまま、一年が過ぎました。
間もなく一学期が終わり、
受験には最後の大切な夏休みです。
一学期末のテストは、
私の眼から見ても分かるぐらい、娘なりに頑張りました。
いつもの取り組みとは違っていました。
しかしながら、結果は伸びませんでした。
その上での話し合いでした。
その結果、
本人も納得をしたのでしょう「夏季講習」に行って頑張る事を決めました。
自分なりの考えで「自由」(自分のやり方、ペースで。)に勉強をしましたが、
結局約束が守れなくて、
自分なりの「責任」をとって夏季講習に行く事になりました。
娘は、立派に責任を取ったと思います。
本人の意識の中では、感じていないとは思いますが!
このように、自由には必ず責任が付いて回るものです。