殻を破る:変わる怖さ!
「殻を破る」
講座・セミナー・ワークショップの中で言います。
古い「しがらみ」を断ち切り、
新しい自分を見つけよう!
そのためには、
昔から着ている「鎧」を打ち破れ!
鎧がある限り、
新しい本当の「自分らしさ」は産まれない!
過去のしがらみから解放されよう!と、
まるで「お題目」の様に!
しかしながら、
よく「怖い」と言われます。
鎧を壊したら、
そこから何が出てくるのか分からないから怖い!
鎧を壊したら、
自分が無くなる!
鎧を壊したら、
私は誰なのか分からなくなる! 等
みんな、すごく怖がります。
何も心配はありません。
いくら壊そうが、「私」に変わりはありません。
だって、それが「私」だからです。
傷つきたくない、
嫌われたくない、
愛されたい、という思いが
「鎧」を付けさしました。
「鎧」を着けないと壊れてしまうからです。
本当の自分を「鎧」の中に閉じ込め、
自分を殺すことにより
自分を守って来たのです。
人に合わせる事により!
ですから、
鎧を壊しても「私」しか出てきません。
但し、魑魅魍魎を飼っていたら知りませんよ!
何が出て来ても
それは総て「私」なのです。
そしてその「鎧」も私なのです。
今まで歩んできた人生なのです。
肯定も否定も要りません。
そのまんまの「私」なのです。
「毛虫」が「蝶々」になる時も同じです。
人から嫌われる「毛虫」もやがて
「さなぎ」になり、
さなぎの中で一度自分自身の姿を変形し
(毛虫という生態から一度、液体になり蝶々に変化します:蛻変)、
華麗な「蝶々」に生まれ変わります。
しかし、姿かたちが変わろうと、
「毛虫」から「さなぎ」
そして「蝶々」に変わる総てが無くして「蝶々」に成れません。
「毛虫」・「さなぎ」・「蝶々」総てが在って「蝶々」です。
私たちも同じです。
殻を被った「私」も、
殻を破った「私」も
総てが「私」です。
どれが欠けても「私」でありえないのです。
「殻を破ったらどうなるのか?
答えが解らないから怖い!
答えが欲しい。
答えが解れば殻を破れる。
歩いて行ける!」と
よく言われます。
もし答えをこの私が出して、
それによって殻を破ると、
それはその人自身ではありません。
それは「私の答え」ですから、
今度は答えを出した
この私に合わした殻を被る事になります。
殻を被っているのも私。
それをダメだしすれば、
自分自身をダメだしすることになります。
殻を破ろうとしているのも私。
肯定も否定もない、
「そのまんまの私」を受け入れましょう!