TKNブログ: カウンセリングから診る「絶歌」
先般、お知らせでもお伝えしました
カウンセリングから診る「絶歌」セミナーを開催しました。
色んな意見もあるとは思いますが
犯罪行為、「絶歌」の出版が良い悪い?被害者感情等は、取り合えず横に起き、
「少年A=酒鬼薔薇聖斗」を何故に創り出したか?
「贖罪」とは何か?何を求めて居たか?更生の道はあるのか?
「死」とは?等を、カウンセリングから診てみました。
決して、「元少年A」を擁護するものではありせん。許される行為ではありません。
カウンセリングとして、「元少年A」の手記から診てみました。
「絶歌」や両親の手記等から、見えてきたものは
随所に、「胎児願望」「気付いて欲しい」「分かって欲しい」
「ありのままの僕」を受け止めて欲しかった思いが、表現されています。
その存在が「祖母」であり、それによりバランスがかろうじて取れていたが、
祖母を喪う事により、心の鎖さえを喪いその対象が
「淳君」の純粋に自分に向き合ってくれる心が、祖母と重なり、
純粋すぎる「淳君」の自分への思いが、逆に殺意に向いた可能性があります。
エリクソンの発達心理学から診ても、発達段階での欠損が
思春期に表れ出てる感があります。
少年院出所後、更生保護施設での仲間。
最終移住先のご夫婦の関わり方も大きなポイントがあると思います。
「基本的信頼」の再構築にも、表れていると思います。
もし、ここで再構築がなされなければ、「再犯」の可能性があったかもしれません。
保護観察が終了し自由になり社会復帰を目指してる時、自分の存在感がない事に気付き、
「私」という存在を確立する旅を始める処にも表れています。
本来ならば、思春期に行なう作業「自我同一視:アイデンティティ」を、
この時から始めているように思えます。
今回の出版も、ここに通じるかもしれません。
特に、自分自身の存在感を認めて貰いたい、実感したいという思いが強く感じられます。
「絶歌」の冒頭の「名前を失くした日」に出ています。
そして、犯行声明文にも。
映画「21世紀少年」の“ともだち”の存在に似ているかと思います。
存在感を認めて貰う為に、万引き、暴力、等に走り、存在を重ねて行っている様にも見受けます。
長男という事もキーワードになるかも知れません。
「少年A」では無く、「私」という存在を認めて欲しい。
承認欲求、賞賛欲求が表れているように感じられます。
全編を通じて、存在感を求めているように感じられました。
名を隠して生きていかなければならない。
少しでも、「私」を出せば、暴露され、追放される。抹殺される。
自分の存在を持つ事を許されない。
それだけの犯罪を犯したのだから、当然の報いでは在るが、
この状況は、過酷なものです。
人間は、共生の動物。
決して、独りでは生きていけない。
人とふれあう事により、「心の安定」を図り、存在感を確認します。
「少年Aでは無く、ひとりの私として生きたい」との叫び!
思春期には、誰もが通る道です。
自我同一視を構築する為に。
この時に、一旦今までの自分を崩し、新しい「私」を構築する時です。
「1か0」「善か悪」等の両極の考えの子供の頃から、
「グレー」の判断をする大人への、崩れやすいバランスの時です。
このバランスが崩れた時、
心の刃物が内に向けば、自己崩壊、自死。
心の刃物が外に向けば、非行、犯罪。
青少年の非行も「分かって欲しい」との、叫びと感じられます。
でも、この時に「後ろ盾」である「基本的信頼=両親」から、守られている安心の空間で
バランスを保ち、抜け出していきます。
「私の事を分かって欲しい。」と、いう叫びが「絶歌」から、私は汲み取りました。
これは、あくまでも私の勝手な解釈です。
こんな事で「少年Aを創り出した理由」だとは、言い切れません。
ひとつの可能性として考えてみました。
非難も在るかとは思いますが、
ひとつの捉え方だと、受け止めてください。
お願いします。
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